「人生の伏線」は、いま、過去に見つける方がいいのかもしれない。
よふかしのうた。言ってみればドラキュラと少年のボーイミーツガール。でも、その夜にしか居場所がない感じとか、友達と友達未満とのやりとりとか、過去のやるせなさとかが爆発してて、さらに終わり方。こんなに余韻のある、言葉にしにくい関係性ある?いやもちろんここで簡単に言葉にできちゃうような終わり方なら20巻も書く必要ないんですよ。もちろんそうなんですよ。だけどそれを夜遅く読んでどこにも発散できなかった僕の気持ちとかはもうちょっと考えて欲しい。親友の名前がマヒルなのもいい。目に映ってるままのマヒルはとても真昼だけど、ほんとにそうなのかっての。んなわけないだろ。ひとってそんなもんじゃないだろ。ドラキュラに「ひと」ってルビ振るときと、「ばけもの」ってルビ振る時。どんな気持ちでそれぞれの人は同じ呼称を使い分けてるのか。考えが止まらない。はぁ。読み直してこれだから、1回目僕どうしてたんでしょうね。おそらく現実にいなかった。全部上の空だった。多分その期間記憶飛んでる。ただただうまくこなしてた。なんかそんな気がします。こわい。傑作にあうと、こわい。
伏線回収。漫画だけに限らず、人生は伏線回収の連続。と言うよりむしろ、そうするように動くことのメリットが大きすぎるって言い換えてもいいかもしれない。最近何も持ってない友人が、「そういえば出身大学あったな」と、出身大学にアプローチし、そこが仏教系だから仏教を学ぶと言い始め、今いるジャンルがアトツギだから、「お寺って究極のアトツギじゃね?」とばかりにポジションを作り始めている。大学に何の思い入れもないだろうに、自分の過去の人生を余すことなく利用するその様は潔くさえもみえる。
思い返してみるとバクマン。って漫画でも、伏線は当初から張ってたわけでなく、話が進んだ後に過去のものを今持ってくることで回収してるという話が出てきた。最初はちょっとがっかりしたけど、でもよく考えると人生もそうならそっちの方がリアルなのかもしれない。