「文章を書く」たのしさを取り戻す。
今日から実験的に毎日分量を書く。量、というとちょっとズレるかもしれないけど、結果としての量という感じ。というのもやっぱやりたいことは「文章を書く」だし、その執筆の時間は幸せだし、なのになんでもっと時間をとってなかったんだろう?って不思議になったからだったりします。
今までも書いてたけど、どこか主題のある書き方が多かったんですよね。なんつーか、これ書こう!って決めて、それの構成考えたりして、なんかいい感じのオチとか終わり方とかそういうのも考えて。こっちの方が良いのが書ける。何を良いとするかもあるけど、少なくてもわかりやすいし、矛盾もない。だけどその分、書く量は減っちゃう。
でもよくよく考えると書くこと自体が楽しいんだから、そこに立ち返るだけでいいなーって思うようになったわけです。だからこんな感じの文章。脱線もするし、何言いたいかよくわかんないところもあるけど、書いてる時の幸福度は高い、みたいなやつです。
というかそもそも論、あれだけ「他者の評価なんて関係ない!」と周りに言いまくってたにも関わらず、noteのスキ数とかimpとか結構気にしている自分がいることに気がついて焦ったと言うか、、。不思議だったというか、、。ある意味、文章というものは読者がいて、それでようやく成立するものだと思っていた節があったような気がしますね。別に書きたいだけだったのに。
だったら誰にも見せなくていいんじゃない?って言われたら、それはその通りだけど、、って前置きをした上で、読める文章になるためには誰かに伝える前提で書く必要がある、と答える気がします。というのも、自分しか読まなくていいやつって「年齢と振る舞いの関係」とか「サタンのすごさ」とかその程度のメモ書きになっちゃうわけです。自分で意味取れればいいから。でもそれって多分1年後には意味不明になってる。というか1ヶ月でも怪しい。だから、読まれる前提の文章がいる。そんなふうに整理してみてる。みてる?みてます?まーみてます。
価値あることを書かないと、、、って前提が外れた時に、生まれる文章があって、それは実際価値はないかもしれないんだけど、書きたいということは満たせるわけで。何が言いたいかよくわかんないけど、それ自体が自分しかかけないものだし、そのしょうもなさを愛することも場合によってはできるのかもしれないなーと。いや、愛とか重いんだけど。重いというか日常では使わないワードだよね「愛」って。大事なんだろうけど、口にすると野暮というか。
「愛」ってワードを使う人は、何か恐れているのかもしれないですね。不安だから、この曖昧な感情に言葉をつけておきたい、それが愛。包含するから。包含するというのは思考を止めるということだから。言語化は分断を生むし、それがそのまま覚悟だったりするし、と。
ビジネスでもなんでもだけど、相手が欲しがってるものがわかるというのは、そのまま相手を味方にできるってことで、たとえば将来に不安を感じている人には「こうやって選べば後悔しないよ」って言えばいいわけです。正直言って、詐欺るのは簡単だなって思います。今の就職環境とかみてると、世の言説と現実のギャップは激しいなって思うし。耳あたりのいい言葉をそのまま受け入れてたら途端に「現実」みたいなものがぶつかってきて混乱する。混乱した時ほど人を騙すのが簡単なタイミングはありません。
そこをうまく使って騙している人がたくさんいることも知っている。そういうのなくしたいなーって思う。一生懸命生きている人が、そのまま生きていける世界の方が好きだし、そうなってほしい。クリエイターなんてその最たる例で、今「お金」ってところとか、「ビジネス」ってところの方がなんとなく強くて、それにどうやって合わせていくのか?って問いの立て方がよくされてて、合わせた人が成功者で、合わせなかった人が失敗者、みたいになってるの気持ち悪い。とても。
じゃーそういうところから切り離されて生きていけばいいのか?っていうとそれはそれで大変で、あんまりよくない。うん。よくない。ヒッピー?とか相当覚悟がないとできないと思うし。もうちょっとマイルドな打ち手があってもいい。
そのあたりからクリエイターは資本主義とかその辺りのことを概略でいいから学べばいいと思ってて、時間を「金融資本」「人的資本」「社会関係資本」そのどれに割り振るのか?くらいの粒度で学ぶだけで、今より相当生きやすくなる。
てかてかこの書き方だと、すごく書きやすいな。この時点で1800字を超えた。他の人が読みたいかどうかはわからない。…というか、気にしないぜイェイ的にやりはじめたにも関わらずちょっと読者の人のことを気にしてるからここは筋トレ的な何かがいるかもしれない。修練。思想の垂れ流しってむずいねほんとに。
1本テーマがあると書きやすいのかと思ったら、ぜんぜんそんなことないですね。むしろ何も考えず思いついたことを書いていく方が幸福度が高い。あとでどっかで編集していくのはありかもしれない。自分の書きたいことを書いていった結果、一つのテーマで括れるって大事。
今だとなんだろ、「クリエイター」とか「学生」とか「起業」あたりが勝手に書くこと。あ、あと「文章」も。これすごく他者からの評価を気にしない文章書くの難しいから、続けたいなって思った。どうなるかわからないけど。
あとなんだろ、書いてると浮かんでくるけど、書くのやめると止まっちゃうよね。んー、いい文章を書くために、いろんな書き方を学んだり、伏線作ったりしてたんだけど、そういうのってただ「書く」ってところからはちょっと遠いなと。なんというか、書くのは、書くことなんだなって。
たとえば、好きな作家さんとかいて、その何が好きなのかを研究して言語化したりもするんだけど、そうすると書く時の楽しさは圧倒的に減る。つまらない。だから薄々そのやり方じゃないんだろうなって思ってた。でも、巷にある文章術系の本は大体そうしろと書いてある。自分がおかしいのか?そういう問いを立てて実験してたけどやっぱり違う。これだと「書く」ということを楽しむことはできない。わかってたし、自分の感覚的にもそうだけど、まだそこを選ぶだけの強さ的なものがなかった。ある種の諦めがなかったといえるのかもしれない。綺麗な文章、意味のある文章、誰かに影響を与える文章、そういうものが書きたかったのかもしれない。でもそれは結果で、過程ではない。過程は、「ただ書く」ということ。ようやく辿り着いた感じがする。
脇道行くんだけど、いま、コワーキングスペースにいることが多くて、そこで書いてみたりもしてるけど、これはマジでダメ。何も深まらない。表層をなぞるようなことしかできない。誰かに話しかけられるかもしれないって状況だと、対人スキルMAXにした外向けverの自分が出てきて、そいつは頭の中に持ってる便利な引き出しを開け閉めして、目の前の人が求めているものを提出するを繰り返す。新しく引き出しを増やすことはしないし、中の道具を磨くこともしない。反射。ただの反射。
それに救われたことは多いけど、それは自分にとってとてもつまらない時間。一人で、誰にも声をかけられない環境で、ただ書く。これが幸せ。
自分にとって「書くこと」と「成功」については、あんまりいうこともなかったけどかなりずっと考えてるテーマだったりする。それこそ「作家」として生きるのかどうなのか、みたいなみたいな。でも自分を「作家」と言った瞬間とても気持ち悪い。合わない服を着ている感じ。これはそこに合わせていけるようになるよって話とは別だと思う(最初はそうかな?って思ってたけど)。
どちらかというと、大事なことを切り落とした感じがする。「トマト好き」って言ったら「あー野菜好きなんだね」って言われた感じというか、「冬の廊下の感じが好き」っていったら「寒いのいいよね」と言われた感じというか。間違ってないけど、要約するなよ、みたいなみたいな。だから「作家」って言わない。これはなんか決まった。
じゃー「書くこと」と「成功」はどう結びつくのか?わかんなくて、一冊商業出版もしてみた。ある種憧れてたし。その本に書いたことは大事なことだと思ってるし、届くといいなって思ったけど、書いてる時の、まさに今みたいな幸福感はなかった。情報の伝達。とても適切な。そこに自分の能力があるのもわかっているけど別に楽しくはない。やれるからやるよって感じ。おそらく早々にAIに奪われる能力。早く奪ってくれ。
そんな思考を辿って、今思うのは「書くこと」と「成功」は切り離そう、ということ。それはもうしゃーない。そういうもん。よく言われることかもしれないけど、自分でやっと辿り着いたというか、、。書くことで成功したいわけじゃない。一方でちょっとだけ「成功したい」って気持ちを持っているという自分にも出会った。なんだ成功って?次はこの辺り書きたいな。
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